僕は冷たくなった指を握って手のひらで暖めながら、ジャケットを着て外へ出る。
去年家を引っ越した僕の家族は、近所の人が通れば頭を下げて挨拶をした。もう引っ越してから一年が経つから、当然のことなんだ。つい四ヶ月前に初めて自分の新しい家を目の当たりにした僕は、未だに隣家の住人の名前も知らないし、顔や姿かたち、年齢や性別まで一切分からない。ドアを出た二歩先は、もう未知の世界だった。
いってきます、と玄関に言い捨ててドアを閉めると鍵を掛けた。後ろを折りたたみ自転車に乗った小柄な男が咥え煙草で通り過ぎる。アイツかもしれない。一瞬で顔が強張り、神経を眼に集中させて一直線にその男の特徴をつかもうとする。その行為はもう既に僕の中で習慣化され、反射的に、無意識のうちにするようになっていた。
真新しい新築の僕の家の窓が、数週間前に割られた。幸い、窓の構造が複雑であったため、叩き割れずに二、三度叩いたあと侵入を諦めたようだった。僕は第一発見者だった。警察は僕の事情聴取をしたがっていたけれど、日中は学校だったので出来なかった。窓はカーテンで隠れていたのだけれど、セロハンテープを貼ったような不自然な線を見つけて近寄って調べてみたのが始まりだった。その日、三者面談で家を出たのが十時、帰ってきたのが十二時だった。たった二時間の間に、何者かが僕の家の窓によじ上り、金属製のもので叩き割ろうとしたのだ。窓の数箇所に、黒い墨のような指紋が残っていた。警察はその指紋を取って帰っていったようだけれど、それから音沙汰無い。唯一分かったのは、手形の指の間隔からすると、侵入者は小柄な人間だった(と推測される)、ということだけだった。左隣の住人は犯行時に家に居て、物音を聞いたという。右隣の住人は以前(といっても数十年前)に空き巣に入られたという。父と母は三日間くらい騒いで、仕事の話しかしなくなった。本当は、僕は、そんなことはどうでもよかった。
その日から僕は極端に眠れなくなった。不眠症に陥った。眠気がしない、というより、眠ってしまうことすら恐ろしかった。物音がすればすぐに飛び起き、玄関の明かりをつけ、家中の窓の鍵が閉まっているか、その度に繰り返し確認して回った。横になって瞼を閉じて、眠ろうとすればするほど、音に敏感になって眠れなかった。もっとも、初日は出刃包丁二刀を目の前に据えて、金属バットを抱きしめ、暗闇の中じっとして、物音がするたびに家中を何度も、忍び足で音を立てないように歩いて回った。僕が何よりも恐ろしかったのは、正体の不透明さだった。得体の知れない侵入者は、何日も前から僕のことや、僕の家族こと、近所のこと、または僕が思いつく事以上のことを把握して、記憶して、息を潜めて、機会を狙っていたのだろう。彼(若しくは彼女)が残していった爪痕は、それだけで無防備な僕に凄まじい衝撃を与えた。財産が、命が、惜しいんじゃない。金目のものならそこらじゅうに転がっているし、盗られて困るものなどそこらじゅうに散らばっている。そんなことに、僕は何の恐怖も覚えない。ただ恐ろしいのは、正体不明の悪意、そのものなのだ。
僕はそれ以来、近所を通る人間を半ば睨みつけるように観察した。いってきます、と誰も居ない家に向かって、声高に挨拶をする。家を出る時も、入る時も、決まって言うことにしていた。老婆がなにか懐かしそうな顔をして僕を見る。残念ながら僕は彼女をも心の底から全力で疑う。郵便配達ではないバイクが家の前に止まっている。玄関で家の前の明かりをつけて、靴を履く。靴を履いている僕の影がドアの隙間からぼんやりと漏れる。バイクがアイドリングを止めてエンジン音が遠ざかる。僕は走り出て左右を見、手にはカメラを構えている。ここ数ヶ月ずっとそんな感じなんだ。
最初のころは家から離れるのが怖かった。家から少し離れたのコンビニへ、自転車で行くことすら恐ろしかった。僕が家から離れている少しの間に、侵入者が入り込もうとするかもしれない。運悪く帰った僕が鉢合わせてしまうかもしれない。見つかって、逆上して、殺されるかもしれない。死んでしまうかもしれない。問題は、そこから先が予測できないことなんだ。寧ろ、そこで死んでしまった方が、簡素で無責任で楽かもしれない。僕は尋常じゃないほど脅えていたし、相反して尋常じゃないほどの好奇心に気圧されていた。
僕が人の目や顔色を窺ったり、人の顔を呆然と眺めて観察するのは、そういう簡素で取りとめのないことが積み重なって僕を構築するからだ。そのことに同等の理解は求めない。同等の経験も必要ない。でも、必要なものばかり集めていたら、とても質素なものになってしまったんだ。今だってほら、冷え切った指先に気付いて暖めてくれる人なんて何処にも居ないだろ?そういうことだよ。もっと単純なこと。寂しいのは、僕だ。
必要ないものに必要なのは、それを見て僕が何を嗤い、何を創るかということ。