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解析

私の中の僕というものを書いていこうと思う。僕というものは以前、名前のないただ漠然としたものだった。次第にその何かが意思を持って、ものではない蠢く無数の微生物になり、或る出来事をきっかけに突然そのアウトラインをくっきり現した。その出来事が私の初めての「背信」であり、またその何者かへの「憧れ」や「羨望」であった。
私は病んでいた。半ば植物状態であった。感覚は完全に麻痺し、医者には典型的なパラノイアと診断された。寧ろ医者を受け入れるようなスペースさえ持ち合わせていなかった。私の中で芽生え、黒黒しい感情を糧に伸びていった生き物は、やがて私を内部から侵食し、喰らった暗黒の内でぎらぎらと鈍く眼を輝かせて息衝いた。
夏の其れも盆を過ぎた猛暑も終わりを告げる頃、その「背信」がゆっくりと首を擡げた。私は未だ其れを抑制させる力を多少なりとも残していたが、後々逆に其れが私自身の足をも引っ張ってゆく事さえ予測出来なかった。随分と昔から私の中に潜むその「背信」という名の僕、つまり私の分身は、闇の中で唯ひたすらに掘り下げていたのかも知れない。いや、然うなのだろう。私の中ですくすくと比重が大きくなるにつれて、黒黒しい感情をも拡散させ転移させていったに違いない。謂わば癌のようなものなのだ。私は既に私としての機能を果たし切れていなかった。
夏期休暇が私の中の悪魔若しくは私そのものに機会を与えたのであろう。高校に入学した年の夏のことであった。私は死んだ。
現代の死に対する意識は寧ろmemento moriの領域にすら達さず俗的な生暖かなポジティブしか掬い取れない。既にその眼さえ直視しようとせず、通俗に倣い厭らしい顔をして除害しようとする。冷ややかな侮蔑の視軸だけが白い壁やコンクリートを嘗めまわすのである。然れども私の死に対する異常なまでの執着は並並ならぬ一種異端とも呼ぶべき想いに駆られるのだ。或る人は狂人、廃人と罵ったりしたけれど、結局は辿り着く慰めさえも全一致で私を卑下するのであった。
死前の用意は存外にものの数分で済んでしまい、然し何かに於いて手を掛けるとしたら果てし無く膨大で一生を懸けても無謀な気がしてきて一向に進む気配どころか退くことも出来ないのであった。
さて私は、遺書を書く迄に至った。数日前に用意していた物は未だ書きかけであったので、私は改めて書き正そうと思い立った。否、思い立った直後ものの数十分で書き終えてしまった。書き残すことも言い残すことも何も持ち合わせていなかったからだ。然して有難うや申し訳ありません等と謙遜する必然性の微塵すら感じられなかったので、結局消しゴムと時間を少々浪費するのみであった。
by haccax | 2006-10-30 17:43 | 飴缶(文)


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